「ピープル・ゲット・レディ」、この曲は正直ロッド・スチュワート(発売名義はジェフ・ベック)が唄うまでは、日本ではソウルのコアなファンにしか馴染みがなかった曲かもしれない。非常に素晴らしい歌で、名曲中の名曲なのだが、そのわりには日本での知名度は今ひとつだった。山下達郎も愛唱している曲で、彼のコンサートでは「蒼氓」という曲の中で、この歌の一節がよく唄われている。山下達郎がこの曲の作者であるカーティス・メイフィールドを敬愛しているのは有名な話だが、達郎ファンでさえも、彼が唄っていた一節の本歌が「ピープル・ゲット・レディ」だったと、ロッド・スチュワートの歌を聴いてはじめて知った人も多かったのではないだろうか。レゲエの神様といわれる、あのボブ・マーリーもこの曲をベースにした歌があるのだが、レゲエファンにもオリジナルの曲をしみじみと聴いたことがない人が多いに違いない。アメリカでは、ボブ・マーリーやロッド・スチュワート以前から、ゴスペルにも取り入れられていたこともあり、名曲の一つとして完全に定着している。日本ではロッド・スチュワート以前のことを知らない人が多く、個人的には非常に寂しいかぎりである。
●カーティス・メイフィールド率いるインプレッションズ
この曲のオリジナルは1965年のインプレッションズ盤となる。作者はインプレッションズのメンバーであるカーティス・メイフィールドである。個人的な話で恐縮だが、私はカーティス・メイフィールドを愛してやまない人間の一人だ。小学校高学年の時に、ラジカセでFENをめくら録りしてポップスを聴いていたが、そのとき彼の「フレディーズ・デッド(Freddie's
Dead)」(1972年)が流れてきて、ものすごいショックを受けた。聴いたことがある人ならわかると思うが、不気味に反復するベースラインとその上を絞り出すように唄う彼のファルセットボイスがなんとも斬新で、その音に圧倒されてしまったのである。当時はどっちかというとロックに執心していた時期だった。そんなロック少年をこの曲は完全に圧倒してしまったのだ。あまりにも強烈だったこのインパクトは、私の音楽体験の中でも忘れられないものの一つだった。当時は英語もほとんどできなかったし、ディスクジョッキーの曲名コールの部分をカットして録音していたから、誰の曲かもわからなかった。それ以来、この曲が誰の何という曲なのかを探すというのが、私のライフワーク的作業の一つとなった。中1の時に「ソウル・トレインのテーマ(T.S.O.P.)」を演奏していたM.F.S.B.のアルバムの中に、この曲のカバーを発見して驚喜したが、それで作者のカーティス・メイフィールドという人を知った。そこから彼を追いかけることが始まったのだが、「フレディーズ・デッド」をはじめとする彼の歌に秘められたメッセージを知って、彼の音楽にさらにのめり込んでいくことになった。カーティス・メイフィールドは私にとって、厳かにできないミュージシャンの一人であり、思い入れも深い。
あらためてインプレッションズの話に戻るが、このグループがレコード・デビューしたのは1958年のことである。メンバーはジェリー・バトラー、カーティス、サム・グッデン、ブルックス兄弟の5人で、シカゴを中心に活動していた。ジェリーとカーティスは、ともにシカゴのトラヴェリング・ソウルズ・スピリチュアル教会聖歌隊で少年時から活動していた友人同士で、そこにテネシーからシカゴにやってきたルースターズというグループを組んでいた残りの3人が合流してインプレッションズは結成された。デビュー曲となった「フォー・ユア・プレッシャス・ラブ(For
Your Precious Love)」(1958年)がいきなり大ヒット。この曲ではジェリーがメイン・ボーカルをとっていた。しかし、その後、サム・クック張りのボーカルを聴かせるジェリーがソロとしてグループから離脱した。ジェリーの後釜にフレッド・キャッシュを迎えて5人編成で活動していたが、所属レコード会社アブナーが閉鎖、彼らはABCに移籍した。その第1弾シングルは、「ジプシー・ウーマン(Gypsy
Woman)」(1961年)である。これはカーティスの作になるもので、「ピープル・ゲット・レディ」同様、たくさんのアーティストにカバーされている名曲だ。このコラムで将来取り上げる予定の1曲である。ジェリー・バトラーの脱退後は、カーティスの存在がインプレッションズの中で、次第に大きいものとなっていたが、このころには彼の作品が主力作品となっており、リーダーとしての地位を揺るぎないものとしていた。「ジプシー・ウーマン」はヒットしたが、その後ニューヨークをホームとするか、シカゴをホームとするかで揉め、ブルックス兄弟が脱退して、インプレッションズは3人編成となっている。この後、カーティス作の、これまた名曲と評判の高い「イッツ・オール・ライト(It's
All Right)」(1963年)などがヒットし、彼らはソウル界に不動の地位を確立していった。このころになると、カーティスは旧友ジェリーをはじめ、メイジャー・ランス、ジーン・チャンドラーなどのプロデュース作業も行うようになっている。
3人になったインプレッションズのボーカル・スタイルは、今聴くと何の変哲もないコーラスに聞こえるが、当時は非常に斬新なアグレッシブなものだった。それまでのコーラスグループは、スタイルとしてはドゥー・ワップが主流の時代だった。インプレッションズがやっていたのは、バック・コーラスがリードを追いかけるようにして唄ったり、リードに応答するようにコーラスがつく、後にソウル・コーラスと呼ばれるコーラス・スタイルだった。このスタイルはインプレッションズが始めたものとされている。もちろん彼らも最初はドゥー・ワップスタイルを踏襲していたが、ゴスペルで使われていた唱法を取り入れて、このスタイルを完成させていった。カーティスは教会の聖歌隊出身だったわけで、そこで培われたものをグループに反映させていただろうことは疑いない。今聴くと何の変哲もなく聞こえるのは、彼らの生み出したスタイルがその後の主流となっていったからである。ここで紹介している「ピープル・ゲット・レディ」もそういったソウル・コーラスの典型的な歌となっている。カーティスは3人になったインプレッションズのプロデューサーであり、リードシンガーであったから、彼の求めたものが音となっていた。新たなダンスミュージックの要素も取り入れ、このころから台頭してきていたソウル・ミュージックの担い手となった。シカゴを拠点とするカーティス・メイフィールドは、デトロイトのモータウン勢とともに、後にノーザン・ソウルといわれたアメリカのミュージック・シーンを席巻する音楽を作り出していった。アメリカの音楽史の上で、インプレッションズは非常に重要な功績を残したグループなのである。それをリードしたカーティスは、ソロとなってからは今度はニュー・ソウル運動の旗手となり、さらに強い影響力を黒人音楽の中に残していくことになる。
●「ピープル・ゲット・レディ」のメッセージ
インプレッションズが3人編成となった、このころのアメリカは公民権運動のボルテージが最高潮に達していたときだった。リンカーン大統領の「奴隷解放宣言」から100年を経ても何も変わっていない状況を憂い、1963年8月28日に、公民権確立を目指して計画されたワシントン大行進が行われ、人種を問わない20万人を超える空前絶後の人間がこのデモに参加した。デモ行進の終点となったリンカーン記念公園で、運動の提唱者マーティン・ルーサー・キング牧師の有名な演説「私には夢がある(I
Have a Dream)」が行われている。これがきっかけで、翌年には公民権法が制定されることになった。このワシントン大行進には、キング牧師の演説前にゴスペルを唄って会場を盛り上げたマヘリア・ジャクソンをはじめ、クインシー・ジョーンズ、トニー・ベネット、セロニアス・モンク、カーメン・マクレエ、ハービー・マン、ポール・ニューマン、マーロン・ブランド、バート・ランカスターら、音楽・映画界の著名人が多数参加していた。公民権運動、そしてそれに続くベトナム戦争は、アメリカの音楽にも大きな影響をもたらしていた。フリージャズの登場、ロックの登場、ファンクの登場、そしてソウルの登場と、激しく音楽界は動いていたが、カーティス・メイフィールドも高まる公民権運動の中で新たな道を模索していたミュージシャンの一人だった。
このワシントン大行進からインスパイアされてカーティス・メイフィールドが書いた曲が、この「ピープル・ゲット・レディ」である。彼は当時、シカゴにいたが、このデモ行進に刺激を受けて、公民権運動の精神を取り入れたこの曲を書いた。「ピープル・ゲット・レディ」の歌詞の冒頭の部分は以下のようになっている。
People get ready, there's a train a-comin'
You don't need no baggage, you just get on board
All you need is faith to hear the diesels hummin'
Don't need no ticket, you just thank the Lord
ここに出てくる「train」とは、想像だがデモ行進の列をシンボル化したものではないだろうか。ワシントン大行進では、人種や宗教を超えた人々が集まり、基本的人権を問い、平和的な行進を行った。キング牧師は「私には夢がある(I
Have a Dream)」の中で、「I have a dream that one day this nation will
rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold
these truths to be self-evident, that all men are created equal."
」といっているが、こういう世界をカーティス自身も理想と描いたののだろう。そういった理想を追い求めて行進する25万人の列が、彼には列車に見えたのに違いない。「People
get ready, there's a train a-comin'」として、そういう世界に向かう列車はいつでも誰にでも用意されているのだ、とメッセージを送っている。ワシントン大行進のデモの直接の目的は、黒人の失業率の改善や最低賃金の引き上げということだったが、その根本には基本的人権の尊重、平等、人類愛とか、平和などを求める精神がある。公民権運動は、時に暴力的な部分も見られなくはなかったが、キング牧師らが主導したのはあくまでも非暴力による運動だった。「ピープル・ゲット・レディ」はこういった精神を引き継いだ歌なのだ。「thank
the Lord」はもちろん、キリスト教的なフレーズだが、彼がキリスト教徒の立場からそう表現しているに過ぎない。カーティスはインタビューで、信仰心の厚かった祖母や教会の牧師たちの教えが彼に潜在的に刷りこまれていて、この歌はそういうものを形にしたものだといっている。ワシントン大行進を見て、そういった潜在的に眠っていたものに火がついて彼はメッセージ的な歌を創作したのだろう。ミュージシャンとしてできることは歌を作ること以外に他ならない。これ以降、彼は歌に何らかのメッセージを盛り込むことをしていくようになる。ベトナム戦争時には黒人の現状を訴えつつ、戦後ですらも真の平和はまだ来ていないという歌を唄っている。彼の作る歌は愛と平和を絶えず意識したものとなっていくが、この曲はその原点にある曲だと言っていい。
1965年、「ピープル・ゲット・レディ」は発表され、ビルボードのR&Bチャートで3位、ポップチャートでも14位まで登っている。「イッツ・オール・ライト」がR&Bチャートで1位、ポップチャートで4位、「ジプシー・ウーマン」がR&Bチャートで2位、ポップチャートで20位だったから、それに比べれば爆発的なヒットとはいえない。しかし、人種差別や宗教的対立のない、人類の愛と平和を願うメッセージがこめられたこの歌の反響は、カーティス自身が想像していたものより大きなものだった。後にいろいろな人々によってカバーされていき、歌い手の裾野が広がり、スタンダードと化していくことになる。曲の良さもさることながら、そのメッセージの普遍性が人の心を打つことになったのだろう。
カーティス・メイフィールドは自分のレコード会社カートムを興して、1970年にソロ活動に入ったが、インプレッションズ時代以上に、メッセージを織り込んだ歌を唄うようになっていった。愛と平和を前提にして、黒人差別を告発した作品、貧窮層の現状を訴えるような作品、戦争批判などの様々な作品を送り出していった。ブラック・パワー・ムーブメントの推進者として、彼が社会に与えた影響というのは、はかりしれないものがある。しかし、そういった辛辣な内容の歌を唄っても、彼の歌には人間的な優しさがあふれていた。そういった彼の歌の持つ独特の雰囲気が、人を惹きつけたのだろう。
●そのメッセージ性ゆえ、ゴスペルの1曲となっていった「ピープル・ゲット・レディ」
カーティス・メイフィールドは教会聖歌隊出身のシンガーであるが、ファルセットの甘い雰囲気や軽快さからは、ゴスペル的なパワフルな唱法をあまり連想できない。そんな彼がリードをとるインプレッションズの「ピープル・ゲット・レディ」は名唱で、しみいるような魅力があるが、決してゴスペル的な歌には聞こえてこない。もちろん、ゴスペル的な雰囲気はあるのだが、カーティスの声と曲のアレンジがゴスペル的な印象を薄らめているのだ。しかし、そこに込められたメッセージは明らかにゴスペルに通じるものだった。そういう歌であるから、ゴスペル系の歌手によって、とりあげられることになるのは自然の成り行きだった。
その中でも、早くから取り上げていたのはクイーン・オブ・ソウルこと、アレサ・フランクリンである。バプテスト派の著名な伝道師クラレンス・L・フランクリンと、ゴスペル・シンガーの母親のもとに生まれた彼女は、生まれたときから歌手になることを宿命づけられていたような天才的な歌手である。子供のころから聖歌隊で揉まれてきた彼女は、すでに12歳で聖歌隊のソロをとるようになっていた。14歳の時には2人の姉と『Songs
Of Faith』(1956年)というゴスペルのレコードをマイナーレーベルから出すまでになっていた。著名伝道師の娘でめっぽう歌がうまいと話題性を持っていたこともあり、ビリー・ホリデイ以来の歌手という評判をとって、1960年、18の時にコロンビア・レコードに入所。メジャー・デビューを果たした。5オクターブ近いといわれる音域を持ちながらも、決してオーバーな表現はせず、力強さを持ちながら、噛みしめながらしみじみと聴かせる歌唱力は周知の認めるところだった。しかし、メジャーレーベルゆえに彼女にありきたりのポップスを歌わせようとして、逆に彼女を矮小化してしまった。コロンビアでの6年間は彼女にとって決して幸福といえるものではなかった。彼女の真価が発揮されたのは、67年にアトランティックに移籍してからである。黒人音楽の旗手として登り調子だったアトランティックと契約し、サザンのディープなソウルが爆発しはじめていたマスル・ショールズのミュージシャン・プロデューサーと親交を持つようになって、彼女のソウルフルな唱法は花開いた。移籍後の第1弾である『アイ・ネヴァー・ラヴド・ア・マン・ザ・ウェイ・アイ・ラヴ・ユー(I
Never Loved A Man The Way I Loved You)』(1967年)に収録されていた「リスペクト(Respect)」が大ヒットを記録。力強い歌声は彼女を名実ともに完全なクイーンの座に押し上げた。
移籍後の第3弾となった『レディ・ソウル(Aretha: Lady Soul)』(1968年)も名盤として名高いが、その中に「ピープル・ゲット・レディ」が取り上げられていた。アレサの力強い唱法によって、この曲はゴスペルフィーリングを大いに利かせた仕上がりとなった。彼女の歌によって、この曲は大きく印象を変えることになる。インプレッションズが唄っていたときは、カーティスの独特の唱法が、いくらアジるような歌詞を歌っても、彼の性格そのものである優しさが醸し出されていて、あまり攻撃的には聞こえてこなかった。そのあたりがカーティスらが主導していたノーザン・ソウルのらしいところである。しかし、アレサの持つダイナミックさと、マスル・ショールズのディープな音作り、アトランティックの攻めの姿勢によって、この曲は強烈なメッセージ・ソングへと雰囲気を変えた。ノーザンとサザンのテイストの違いが、同じ曲でよく出た典型的な例である。ソウルの南北戦争ではないが、ノーザンとサザンではあまり曲のやりとりが行われることはなかったから、同じ曲でそれぞれのテイストを見比べられるおもしろい例となった。とにかく、サザン側でノーザンの曲を取り上げるようなことになったのも、カーティスの曲が普遍的な価値観を持っていたせいだろう。1968年といえば、ベトナム戦争が激しさを増して、次第に反戦が声高々に叫ばれ出してきたころだ。公民権運動の精神は、ベトナム戦争の反戦運動にも踏襲されていった。1970年にエドウィン・スターが「ウォー(黒い戦争)(War)」を歌って、真っ向から戦争に反対を表明し、マーヴィン・ゲイが「ホワッツ・ゴーイン・オン(愛のゆくえ)(What's
Goin' On)」で憂える状況を唄ったが、その前段階の歌として「ピープル・ゲット・レディ」は位置づけられるということもできるだろう。
このアレサの歌により、この曲が元来持っていたゴスペル的な部分が大きくクローズアップされることになった。次第にゴスペル歌手によって、この曲が取り上げられるようになり、ゴスペルの1曲として定着していくことになるのである。ゴスペル曲がR&Bやソウルに取り込まれることはよくあったが、逆にR&Bやソウルの曲がゴスペルとなった歌は少ない。「ピープル・ゲット・レディ」はそういう非常に珍しい歌の一つとなったのである。
ゴスペルサイドの「ピープル・ゲット・レディ」で印象深い盤には、アル・グリーンの歌がある。彼はご存じの方も多いだろうが、ザ・グリーン・ブラザーズという家族のゴスペル・チームで少年時代を過ごし、その後ソロに転身した技巧的な歌唱力を持つソウル系のシンガーである。「レッツ・ステイ・トゥゲザー(Let's
Stay Together)」(1971年) で全米ナンバー1の大ヒットを飛ばし、セクシーな歌声とファルセットにシャウト、抜群の歌唱力に甘いマスクで70年代前半に圧倒的な人気を誇っていた。しかし、そんな彼もプライベートでは74年に交際していたメアリー・ウッドソンという女性と口論になって、入浴中に彼女から背後よりトウモロコシのオートミールを浴びせられ、メアリー本人は拳銃自殺してしまうというスキャンダルに見舞われている。彼自身は背中、胃、腕などに重度の火傷を負ったが、危うく命を取り留めていた。この事件によって精神的な転機を迎えた彼は、再びゴスペルに回帰することになる。79年にはシンシナティでの公演で、舞台から転落して楽器ケースに激突し、15日間の入院生活を強いられた。この入院中に彼は公演やヒット曲に負われる自分の毎日を後悔し、ゴスペル専門歌手へと転身する決意を固めたとされる。神からの声を聴いて使命に思ったということだが、教会を買い、牧師となる道を選択する。その間にゴスペル専門歌手として、フル・ゴスペルのアルバムを何枚も発表していくことになる。その第2弾が『Higher
Plane』(1981年) で、ここにゴスペル曲として、「ピープル・ゲット・レディ」が収録されていた。ゴスペルといっても彼らしいファルセットと、ソウルフィーリングが利かされた好演で、ゆったりとしたテンポの中、女性歌手との対話形式のデュエットを行い、曲の合間に「Thank
the Lord」のゴスペルコーラスを入れた、なかなかの作品となっている。
●力みまくりの「ピープル・ゲット・レディ」
アレサ・フランクリンの『レディ・ソウル』が出る1年前の1967年に、「ピープル・ゲット・レディ」を取り上げたグループがあった。バニラ・ファッジ(最近はヴァニラ・ファッジとなっているが、以前はこう表記した)である。このグループは非常に特異な存在のグループだ。日本ではアート・ロックとか、サイケデリック・ロックといわれて、ジャンルつけられていたが、そうともいえない、ロックが熟成する過程で出てきた突然変異的なかなり変わり種のグループだった。ニューヨークで結成されたアメリカン・バンドながら、その音はむしろ後のイギリス勢に引きつがれていったような印象のあるグループである。中心メンバーだったベースのティム・ボガートとドラムのカーマイン・アピスが、後にイギリス勢の代表格であるスーパーギターリスト、ジェフ・ベックとベック・ボガート・アンド・アピス(BBA)を結成したことからも、彼らの音のそういう雰囲気は察していただけるだろう。
バニラ・ファッジは、ギターのヴィンス・マーテル、キーボードのマーク・スタイン、それにアピスとボガードの4人編成のバンドで、1966年に結成された。同じ時期にやはりニューヨークで結成されたグループには、アンディ・ウォーホールがそのコンセプトを作り出したベルヴェット・アンダーグラウンドがある。名前の通りアンダーグラウンド的な活動をしたベルヴェットに比べると、デビューシングルの「キープ・ミー・ハンギング・オン(You
Keep Me Hanging On)」(1967年) が68年になってポップチャートの6位まで上がっているので、バニラ・ファッジはメジャーなバンドだったということができる。「キープ・ミー・ハンギング・オン」はご存じの通り、全米ナンバー1ヒットを大量生産したモータウンのソングライターチーム、ホーランド・ドジャー・ホーランドが書いたシュープリームスの大ヒット曲のリバイバルバージョンである。この曲が収録されたバニラ・ファッジのファーストアルバム『バニラ・ファッジ(Vanilla
Fudge)(最初の邦題は「キープ・ミー・ハンギング・オン」)』(1967年) には「ピープル・ゲット・レディ」が収録されていた。
このファーストアルバムにはこの他にもビートルズの「涙の乗車券」、ゾンビーズの「シーズ・ノット・ゼア」など、他人の作品のカバーバージョンが収録されていた。ほとんどがカバーで、彼らのオリジナルは曲間の繋ぎの意味不明の短いインストナンバー程度というものだった。これらカバー作品が売りのアルバムで、他と違っていたのは、これがたんなるカバーではなく、演奏が全てバニラ・ファッジ風味のエッセンスで味付けられていたということである。とにかく仰々しく、力任せで、音がギンギンという恐るべきサウンドだったのだ。全てが同じようなアレンジなので、このアルバムから1曲でも彼らの曲を聴いたことがある人なら、それだけで全体の雰囲気がわかってもらえる。ヒットした「キープ・ミー・ハンギング・オン」も、アルバムには6分30秒強のフルバージョンが収録されているが、曲の歌い出しが始まるまで1分50秒も前奏のイントロがあり、オーバーこの上ない。とにかく演奏というものに重心を置いた音作りとなっている。ザ・フーのデビュー時の荒削りな部分をもっと大袈裟にし、当時、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』や『マジカル・ミステリー・ツアー』で衝撃を与えたビートルズのフィーリングを持ち込んだような感じだった。同じくサイケデリック・ロックといわれた、同時期のドアーズやジェファーソン・エアープレーンに比べても、演奏は重々しかった。初期のナイスのような感じもあるので、プログレシブ・ロック的と解釈する人もいるが、私にはあまりそういうふうには聞こえない。とにかく4人がどれだけ演奏できるかを競っているような演奏偏重主義的なところが見られるバンドなのである。それゆえ選曲がカバーばかりなのだろう。オリジナル曲の製作よりも、まずは演奏なのである。
彼らが「ピープル・ゲット・レディ」を演奏するのだが、これが驚くほど仰々しい。どの曲でもそうだが、ボガートとアピスのリズムセクションが力任せに恐ろしいほどの迫力で迫ってくる。ギターのヴィンス・マーテルは正直頼りないのだが、リズムセクションの二人の迫力がギターとオルガンの激しさを導いてしまうのがバニラ・ファッジだった。また、4人がメイン・ボーカルをとれる実力の持ち主だから、ボーカルも楽器演奏同様パワフルになる。「ピープル・ゲット・レディ」でも前奏で、おーっと思わせるような力強いコーラスを聴かせてくれる。時にゴスペル風のシャウトがあったりして、キレがある。「ピープル・ゲット・レディ」の数々の名演の中にあって、かなり異彩を放っているのが、このバニラ・ファッジのバージョンだ。
ちなみにバニラ・ファッジは2枚目のアルバム『ザ・ビート・ゴーズ・オン(The Beat Goes On)』(1968年) ではクラッシックのカバーを入れながら、オリジナルも入れた新しい道を探りはじめるが、年を重ねるごとに尻つぼみとなり、1970年に解散している。ファーストの衝撃的な内容を凌駕できないまま、終わってしまったのである。ボガートとアピスは前述したようにジェフ・ベックとトリオを組んで、世間をあっといわせたが、そこでもベックと演奏で死闘を繰り広げている。バニラ・ファッジの本質はそういうところに受け継がれていった。近年のロック界のスーパーベーシストといわれているビリー・シーンがボガートをアイドルとしているのも、さもありなんという感じである。バニラ・ファッジは2003年、再結成されて『The
Return』というアルバムをリリースした。ここでも「ピープル・ゲット・レディ」や「キープ・ミー・ハンギング・オン」などの、かつてのレパートリーの再演奏を行っている。
●ボブ・マーリーがリスぺくトした「ピープル・ゲット・レディ」
あのレゲエの神様、ボブ・マーリーもカーティス・メイフィールドに敬意を抱いていたミュージシャンの一人だ。レゲエの大巨人について、今さら説明の必要はないと思うので、彼のバイオグラフィーに触れないが、彼もこの曲を唄っている。というか、正しくは「ピープル・ゲット・レディ」をモチーフにして、新たな曲に作り替えて唄っているのである。タイトルは「ワン・ラヴ/ピープル・ゲット・レディ(One
Love / People Get Ready)」といい、ボブ・マーリーの曲の中でも、かなり人気の高い1曲となっている。
ボブ・マーリーがカーティス・メイフィールドを敬愛するのもよくわかる。カーティスは社会派のミュージシャンとして、様々な分野の人々から敬愛されていた。彼の社会批判の語り口は鋭く、特に社会的弱者や経済的弱者に関するメッセージは、アメリカのみならず、世界で受け入れられてきた。ジャマイカのキングストンのスラム街で育ったボブにとっては、音楽を志す根本的なところで、カーティスに共鳴する部分があったのだろう。ボブの歌はカーティスと同じく社会的底辺の人々のことを唄ったものだった。
彼の歌はラスタファリズムから多大の影響を受けているが、ラスタファリズムに傾倒するようになったのも基本的に彼がジャマイカの社会底辺を彷徨っていた貧しい階層の人間の一人だったことがある。彼は父親はイギリス人で白人であり、母親はジャマイカの黒人という、いわゆるハーフだが、父が早く死亡したこともあり、スラムで暮らすようになっていく。ハーフという微妙な立場だった彼は差別の対象にもなっただろう。それは逆に黒人としてのアイデンティティを彼の中に目覚めさせることにもなっただろう。英領からのジャマイカの独立、経済的困窮、そういう中でラスタファリズムに彼はのめり込んでいった。ラスタファリズムといえば、ジャマイカの牧師マーカス・ガーヴィーの教え、予言に端を発している宗教のようなものだが、アフリカ回帰主義的部分があり、20世紀に出現した黒人初の皇帝、エチオピアのハイレ・セラシエ1世を救世主と仰ぐ、という特徴がある。アフリカより奴隷として連れてこられた黒人の子孫であるジャマイカの人々の精神的な拠り所となった思潮だ。カーティス・メイフィールドは、アース・ウインド&ファイアのようなアフリカ回帰主義的な部分を表にはあまり出すことはなかったが、黒人たちの境遇を常に憂い、差別と戦ったミュージシャンだった。そういう部分で、二人はつながる部分があり、ボブはカーティスをリスペクトしていたのだろう。
ご存じの通り、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズがジャマイカからイギリスに渡って、アイランド・レコードと契約し、『キャッチ・ア・ファイア(Catch
A Fire)』(1973年)でヨーロッパデビューを果たした。徐々にイギリスで人気になりはじめたころ、エリック・クラプトンが彼らの「アイ・ショット・ザ・シェリフ(I
Shot The Sheriff)」(1974年)をカバーして爆発的なヒットを飛ばして、ボブ・マーリーの知名度は一気に上昇した。75年暮れに出た『ライブ(
LIVE!)』は全世界に衝撃を与え、彼らは一躍世界的な大スターとなっていった。「ワン・ラヴ/ピープル・ゲット・レディ」は、1977年発表された名盤として名高い『エクソダス(Exodus)』に収録されていた。
ボブはリスペクトするカーティスのインプレッションズ時代の大傑作「ピープル・ゲット・レディ」をとりあげているが、それをそのまま唄っていないところが、彼の才能がかいま見えるところだ。『エクソダス』に収録されていた「ワン・ラヴ」は、テンポの速いスカ的なアレンジのナンバーである。スカやレゲエで使われる例の「ンチャ、ンチャ」というリズムに乗って、「One
Love, One Heart Let's join together and feel all right」とコーラスで歌い出される。このあたりのメロディは、コード進行などから「ピープル・ゲット・レディ」からインスパイアされたことはうかがえるが、基本的には原曲にないものでボブのオリジナルだ。この歌い出しのコーラスセクションが終わると、「ンチャ、ンチャ」のそのままのリズムに乗って、「ピープル・ゲット・レディ」のメロディが出てくる。しかし、詩は以下のように唄われる。
Let them all pass all their dirty remarks (One Love)
There is one question I'd really like to ask (One Heart)
Is there a place for the hopeless sinner
Who has hurt all mankind just to save his own?
最初の2行はボブのオリジナルである。しかし、最後の2行は、完全に「ピープル・ゲット・レディ」からの引用である。この1節のあと、またボブのオリジナルの「One
Love, One Heart」コーラスが再び出てくる。この繰り返しでこの歌は唄われていく。この曲は珍しくラスタファリズムの影響があまり出ていない曲で、カーティスとは違った意味での人類愛の歌になっている。ボブ・マーリーの歌で他人名義の曲というと、思い出されるのは大ヒットした「ノー・ウーマン、ノー・クライ(No
Woman No Cry)」だ。作者はヴィンス・フォード(Jack Tartar)とクレジットされているが、この曲は実質的にはボブが作ったものだった。ということで、「ワン・ラヴ」は彼の曲の中にある、とりまき関係者以外の数少ない他人の作品なのである。人の曲をそのまま唄わず、彼らしいメッセージを添え、オリジナルコーラス部分をつけて、実にうまく構成した。「ピープル・ゲット・レディ」を知っている人でも、原曲のイメージとあまりにも遠いアレンジに仕上がっているため、それと気がつかないかもしれない。ボブ・マーリーの才能が遺憾なく発揮されたご機嫌なスカナンバーだ。
この「ワン・ラヴ/ピープル・ゲット・レディ」のオリジナルは、『エクソダス』に収録されていたが、このバージョンと1984年、彼の死後に出されたベストアルバム的存在の『レジェンド(Legend)』に収録されたバージョンではアレンジが違う。『レジェンド』の「ワン・ラヴ」は12インチ・シングルバージョンで曲自体が2倍の長さで、テンポはだいぶ落とされて、ゆっくりと完全なレゲエ調のアレンジになっている。オリジナル『エクソダス』バージョンではコーラスはウェイラーズの男ばかりだが、『レジェンド』バージョンは、ボブの妻、リタ・マーリーを中心とするお馴染みの女性コーラスである。『エクソダス』のスカナンバーは、カリブ的なにおいをプンプンさせて、録音もあまりよくないのだが、『レジェンド』は録音もよく、レゲエらしいナンバーのため、『レジェンド』バージョンの方がよく知られている。
蛇足だが、ボブ・マーリーの「ワン・ラヴ」といえば、この曲の名前を冠した「ワン・ラブ・ピース・コンサート」のことが思い出される。1978年4月21日、ジャマイカで行われた「愛と平和」をテーマにしたこのコンサートは音楽史でも有名なコンサートとなった。ボブ・マーリーはもちろん、ピーター・トッシュら著名なレゲエアーティストが集結して、このコンサートは開催された。当時のジャマイカといえば、政治的には人民国家党(PNP)とジャマイカ労働党(JLP)で勢力が二分され、両者が武力を使って衝突し、殺人がしばしば行われるという非常に殺伐とした時代だった。積極的に政治に関わっていたボブ自身も、JLP支援コンサートをひかえていた1976年12月3日、自宅にいるところを5人組に襲撃され、銃撃されて瀕死の重傷を負っていた。この事件後、彼は身の危険を感じ、一時的に海外に逃れていた。その彼が並々ならぬ決意を持って臨んだのがこのコンサートだった。彼は帰国してステージに臨んだが、彼はコンサート中に、敵対するPNP党首マイケル・マンレイとJLP党首エドワード・シーガーを舞台に招き上げて、数万人のジャマイカ群衆の前で握手をさせたのである。ボブ・マーリーというジャマイカの生んだヒーローだったからこそ成しえた快挙だった。その後、両者の衝突は終焉を迎えたというわけではなかったが、当時のジャマイカにとっては希望を与える大きな出来事となったのだ。原曲の「ピープル・ゲット・レディ」が発していたメッセージが生きた場面であったといえるかもしれない。
ちなみにこの曲は、ジャマイカ独立40周年の際、ジャマイカ国民が選んだ40年の間に作られたジャマイカの歌ベスト40で、堂々第4位となっている。1位は同じボブの「ノー・ウーマン、ノー・クライ」である。原曲はジャマイカ人の曲ではないのだが、ジャマイカ本国でも非常に人気がある曲なのだ。
●J・ベックとR・スチュアートの旧友が織りなした「ピープル・ゲット・レディ」
あのジェフ・ベックも、この歌を取り上げているミュージシャンの一人である。ベックといえば思い起こされるのは、1975年のインストゥルメンタル・アルバム『ブロウ・バイ・ブロウ(Blow
By Blow)(日本では当初は『ギター殺人者の凱旋』)』である。70年代、ロックに傾倒していた人には、これは衝撃的なアルバムだった。マックス・ミドルトンと組んで製作されたこのアルバムで、突然、ベックは今でいうフュージョン的なアプローチをみせたのだ。ハードロックから、がらりとサウンドを変えたこのアルバムは、賛否両論を巻き起こした。三大ロック・ギターリストの一人として崇拝までされていた彼が、フュージョン的なインストゥルメンタル・アルバムを製作したため、以前からのロックファンは大いに戸惑うことになる。当時はクロスオーバーといわれたフュージョンが大きくクローズアップされ出していたころで、その波に乗ってロックを捨てたと酷評もあったが、一方では彼のギターリストとしての可能性が存分に引き出された快作として熱烈に支持する人も多かった。同じ三大ロック・ギターリストの一人とされたジミー・ペイジが、『ブロウ・バイ・ブロウ』について、ギターリストの、ギターリストによる、ギターリストのためのアルバムと最大級の賛辞を送り、彼を援護した。それほど衝撃的な内容だったが、その後、ジャズ系のギタリストとの共演が多かったヤン・ハマー、後にプロデューサーとして大成するドラマーのナラダ・マイケル・ウォルデンを加え、さらにフュージョン的色彩を濃くした『ワイアード(Wired)』(1976年)を発表。ハマーとの恐るべき音バトルが繰り広げられ、『ブロウ・バイ・ブロウ』の世界をさらに一歩推し進めたソリッドな音の世界を作り出すことに成功した。この2枚のインストゥルメンタル・アルバムは今ではロックの歴史的な名盤に数えられている。その後、ハマーと『ライヴ・ワイアー(Jeff
Beck With The Jan Hammer Group Live)』(1977年)、フュージョン的なインストゥルメンタルの路線を踏襲しつつロックにも回帰した『ゼア・アンド・バック(There
And Back)』(1980年)が発表された。さらにリターン・トゥ・フォーエバーを脱退したスタンリー・クラークのソロ・アルバムやツアーに参加して、さらにフュージョン的な色彩を強くしていた。
1975〜80年代最初のころのベックはフュージョン的なインスト作品を演奏していた。ベックは1968年、自分がリーダー名義で出した最初のアルバム『トゥルース(Truth)』においてすでに「Beck's
Bolero」というインスト作品を創作して、ギターの可能性を探る行為を行っていたから、そういう意味では『ブロウ・バイ・ブロウ』もその延長線上にあるような作品で、彼が進むべくして進んだ道だったといえるかもしれない。この頃の彼はマックス・ミドルトンやヤン・ハマー、スタンリー・クラークといった周囲のミュージシャンの作品の中で、彼らのプレーから受けた新鮮なインパクトを彼のギターの表現に生かしていた。もともと、オリジナル作品は多い方ではなかったし、ギターでの表現の可能性を探ることの方が彼にとってはむしろ重要だったのだろう。『ブロウ・バイ・ブロウ』『ワイアード』はそういう彼の欲求をポジティブに表現することに成功した快作だった。しかし、『ゼア・アンド・バック』くらいになると、時に他人からの影響力のバランスが悪くなって、彼自身の音楽探究に支障が出始めていた。このアルバムではいろいろなことをやっていたが、彼自身に迷いがあるようにもみえ、その後、落ち込んで沈黙してしまうことになる。ベックという人は、自分の作品に非常にこだわりを見せる人で、あとはミキシングのみという段階までレコーディングしていても、少しでも気に入らなければテープを全部破棄してしまう、酷い生真面目さがあった。そういう彼だから、探求する音楽ができないことで、相当のストレスもあったのだろう。全くやる気をなくして、音楽的な沈黙状態に陥ってしまうことになる。
その沈黙後、出たのが「ピープル・ゲット・レディ」が収録されていた『フラッシュ(Flash)』(1985年)だった。沈黙中にもスタンリー・クラーク、サイモン・フィリップスらとの共作アルバムの話もあったようだが、結局はお流れになっている。『フラッシュ』は彼のインタビューによれば、レコード会社からのオファーで作らされたアルバムだったそうだ。プロデューサーには、なんとナイル・ロジャースが抜擢されていた。ナイル・ロジャースといえば、シックで70年代終わりのダンス・ミュージックシーンを席巻したミュージシャンである。彼はその後裏方に回り、シスター・スレッジを世に送り出し、プロデューサーとしての活動をはじめた。1983年にはデビット・ボウイの『レッツ・ダンス(Let's
Dance)』をプロデュースして、これが大ヒット、ボウイを再びベスト10歌手に押し上げる快挙を演出した。84年にはマドンナの『ライク・ア・バージン(Like
A Virjin)』をプロデュース、ここから「ライク・ア・バージン」「マテリアル・ガール」のメガヒット曲を送り出して、彼女をあっという間にスーパースターへと導いていた。これらの成功で、ヒットメーカープロデューサーとして名声を不動のものとしていた彼だが、なんとベックのアルバムをプロデュースすることになったのだ。
このアルバム、ご存じの方も多いと思うが、ミュージシャンのジェフ・ベック、プロデューサーのナイル・ロジャース双方とも本人自身が失敗作と認めているもので、両人ともあまりこの話題に触れたがらない。ベックはレコード会社からの意向で作らざるを得なかったアルバムであることを認めている。これを出すまでの彼は再起不能とか、いろいろ噂を立てられていたことからも推測されるように、自身の音楽的な方向性を見失っていた時機だった。『ゼア・アンド・バック』から5年、何もしていないに等しかったベックだったが、そんなベックをレコード会社もそのままには捨て置けないという事情があったのだろう。レコード会社にしてみれば製作命令はペナルティ、よく言えば親心のようなものだが、ただ作るだけでは意味がなく、売ってもらわなくてはたまらない。売れやすい大衆向けのダンスミュージックでも作って見ろということで、その筋の切り札的プロデューサー、ロジャースをベックにあてがい製作されたようなアルバムなのである。そのため、『ブロウ・バイ・ブロウ』以来、インストゥルメンタル一本で来ていたのを変更して、ボーカルが入った、今風のアルバムを製作することになった。ボーカルアルバムはベック名義のものとしては、バニラ・ファッジのところでちょっと触れた『ベック・ボガート・アンド・アピス(Beck,
Bogart & Appice)』(1973年)以来のもので、実に12年ぶりのものとなった。ロジャースはマドンナの方のアルバムがミックスダウン中だったこともあり、また、ベックともあまり反りがあわなかったことから、製作段階から両者の関係はギクシャクはしていたようだ。スタジオにマドンナが来て、ロジャースのスケジュールをベックに質して帰っていったという逸話も残されている。最初からミスマッチなのはわかっていた組み合わせだったが、ロジャースの方もこんな状況で、力を出し切れなかった。ベックも尻を叩かれて、重い腰を上げての仕事で気乗りもしなかったのだろう。
このアルバムにはロジャース・プロデュース以外の作品もあるが、そっちの方がデキがよい。その一つが「ピープル・ゲット・レディ」だった。ベックはこの曲を以前からコンサートなどでは演奏していたようだが、他のダンスナンバーとのアクセントとして、この曲をこのアルバムに選曲したのだろう。正直、他の曲とは趣の違う曲となった。これは彼の企画である。それゆえ、製作テンションもロジャース・プロデュース作品とはかなり違うものがあったのだろう。ただ、最初はインストゥルメンタル作品の予定だったらしい。一説にはこのデモをロッド・スチュワートが聴いて、彼自らが志願してボーカルを担当することになったといわれている。ご存じの通り、ロッド・スチュワートはベックによって、世に出してもらったボーカリストである。ベックがヤードバーズを辞めて、自己のグループを結成することになるが、これで結成されたのが、ジェフ・ベック・グループ(第1期)だった。このグループにはロッドの他にロン・ウッド、ミック・ウォーラー、ニッキー・ホプキンスらがいた。『トゥルース』、『ベック・オラ(Cosa
Nostra Beck-Ola)』(1969年)の名作2作を残して、このメンバーでのグループは崩壊したが、ベックとスチュワートのコンビは、ロック界の最強タッグと評判をとった。何しろ、『トゥルース』の録音にはジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズという後にレッド・ツェッペリンとなるメンバーも参加しており、このジェフ・ベック・グループの音を盗んでツェッペリンが結成されたといわれるほど、当時のロックシーンに大きな影響を与えたグループだったのだ。ハードロックの確立に多大な貢献をしたロック史に残るグループといっても過言ではない。ロッド・スチュワートはこのグループで注目される前までは、泣かず飛ばずの状態だったのだが、これで一気にロック・ボーカリストとしての地位を確立してしまうことになった。
第1期ジェフ・ベック・グループは大変な評判をとったが、グループ内部の状況は最悪で、空中分解してしまうことになる。ベックはスチュワートのボーカルを非常に評価しており、ティム・ボガートとカーマイン・アピスを加えた新グループにも彼を起用する予定だった。ベックはスチュワートの才能を見抜いたミュージシャンの一人でもあり、スチュワートにとってはいわば恩人ともいえる存在だった。しかし、スチュワートは人間関係に疲れ、ロン・ウッドとともに、さっさとフェイセスに参加して出て行ってしまった。ベックが交通事故にあって重傷を負い、長期リタイアを強いられたこともあり、新グループ構想は全てがお流れとなった。これ以降、ベックとスチュワートの最強コンビが再び手を組むことはなかった。ベックはその後もスチュワートを評価し、ベックが新ユニットを結成する際には必ずといっていいほど彼の名前が噂にあがってきていたが、実現されることはなかった。スチュワートはジェフ・ベック・グループ脱退後、どんどん大物となっていき、もう共演はあり得ないだろうというのが大方の見方だった。それが、この『フラッシュ』の「ピープル・ゲット・レディ」で実現されたのである。これは、昔からのロックファンには、狂喜乱舞するような出来事だった。もうないかと思われていた共演が実現した、それだけで十分なインパクトがあったのだ。ベックの『フラッシュ』は正直悲しいアルバムだが、多くのベックファンは、ロッド・スチュワートとのコンビの復活が実現した、そこに意味を見出したのである。
自ら唄いたいと志願したといわれるだけあって、「ピープル・ゲット・レディ」でのスチュアートは素晴らしいボーカルを聴かせる。ベックが彼の調子の良さに感服するほどだったようで、わずか2時間で彼のボーカルを取り終えたらしい。しわがれた声が、実にこの曲に合っていた。曲後半でのシャウトなどで円熟した彼のボーカルテクニックを存分に聴くことができる。スチュアートは近年『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブック』シリーズのような、スタンダード曲のようなものを歌っているが、そういう取り組みへとこの曲は路線変更を促すきっかけとなっただろう。ベックはアーミング奏法を交えながら、ギターを泣かせまくる。ロック・バラードの教則本にしたくなるようなギターである。この旧友コンビが織りなした「ピープル・ゲット・レディ」は、これまでに見てきたこの曲の様々なバージョンとは違った、完璧なロック・バラードである。さすがにロック界で歴史に名を留める二人だけに、完成度は高い。このバージョンが売れたのも納得できる、そう思わせるデキだった。
ベックはスチュワートとともに、初体験のこの曲のPVにも出演している。このあたりがレコード会社の意向というところを如実に表しているのだが、会社の思惑通り「ピープル・ゲット・レディ」はヒットし、さらに『フラッシュ』に収録されたナイル・ロジャース抜きのヤン・ハマーとの再度の共演作「エスケイプ」はグラミー賞まで獲得した。作っている人間にとっては最悪アルバムでも、レコード会社にとってはしてやったりの結果となった。
なお、ロッド・スチュワートは、この曲を自分名義のライブ・アルバム『アンプラグド(Unplugged... and Seated)』(1993年)でも取り上げている。こちらはどちらかというとゴスペル調のアレンジで、ロン・ウッドがギターで参加しているものの、ベックが弾いたギターパートをストリングスがやっていて、ゴスペルぽいコーラスが付いたもので『フラッシュ』バージョンとは雰囲気が違う。個人的には『フラッシュ』の方のデキがいいと思う。スチュワートのボーカルのデキの違いもあるが、『アンプラグド』では終盤出てくるウッドのソロが、ベックと比べると、あまりに陳腐なのだ。これはウッドの責任ではない。ストリングスが伴奏の主体になっているアレンジだけにギターが控えめにならざるを得いのだ。それなら最初からない方がいい。そう思わせるようなアレンジのため、このバージョンはあまりオススメできない。
2004年、ベックとスチュワート、そしてウッドが集まってジェフ・ベック・グループを再結成させる動きがあった。これはベックではなくて、スチュワートの意向で、彼が二人との共演を求めているらしい。すでにベックにも話を打診しているそうだ。ただ、この人たちはかなり気まぐれな部分があるので、即実現とはいかないだろう。ただ実現すれば、彼らの「ピープル・ゲット・レディ」は甦るであろうし、35年の時を経て円熟した彼らがまた新たなロックを聴かせてくれるかもしれないという希望はあるのだ。
●山下達郎と「ピープル・ゲット・レディ」
山下達郎が彼のライブアルバム『JOY』(1989年)に収録された「蒼氓」の曲中で、「ピープル・ゲット・レディ」を唄っていることは最初のところで書いたとおりである。「蒼氓」はもともと『僕の中の少年』(1988年)にスタジオテイクが収録されていた作品である。このスタジオテイクでは、最後のコーラスに桑田佳祐・原由子夫妻が参加していた。
山下達郎といえば、彼のことをよく知っている人ならご存じだと思うが、たいへんなポップスオタクである。オタクと書いたが、これはあくまでも彼に敬愛の意味を込めて使用している。自身がDJを勤めるラジオ番組でも、自らのレコードコレクションから選曲し、ポップス史を語ったりしているほどで、ポップス博士ぶりは日本のミュージシャンの中には並ぶ人がいないのではないかと思えるほどである。ビーチ・ボーイズ・オタクぶりも有名だが、ソウル系の音楽に対して非常に見識が深い。特にノーザン・ソウルやニュー・ソウル運動に対して、たいへん敬意をはらっている様子は、彼の曲や言動など様々なところに見受けられる。
そのノーザン・ソウルやニュー・ソウル運動を従えたのが、シカゴのカーティス・メイフィールドやデトロイトのモータウン勢、とりわけマーヴィン・ゲイ、などである。当然、山下達郎のフェイバリットアーティストであり、彼自身、彼らからたいへんな影響を受けている。達郎の82年に発表されたシングル「あまく危険な香り」は当時放映されていたTBSの人気番組『ベストテン』でもランキングに入るほど(出演以来があっても彼は最後まで出演しなかった)のヒットぶりだったから、覚えている方も多いと思われるが、あの曲の伴奏で流れる彼自身の手によるギターのカッティングはカーティス・メイフィールドの『Something
To Believe In』(1980年)に収録されていた「Tripping Out」という曲のカーティス自身が弾いているギターカッティングとよく似ている。明らかにこの曲のリズム・アレンジからインスパイアされて、「あまく危険な香り」は書かれたと思えるのである。この例に見られるようにサウンド面で非常に大きな影響を受けている。しかし、それ以上に音楽に対する姿勢という部分で、彼らからの並々ならぬ影響が強く感じられる。
カーティスはインプレッションズのところでも書いたとおり、ニュー・ソウル運動の旗手であり、メッセージを曲に織り込み、黒人をはじめとする抑圧された人々の代弁者となった。しかし、それはボブ・ディランに代表されるフォークのような叩きつけるゴツゴツした叫びのメッセージではなく、ダンス・ビートやソウルの流れるメロディにのせて唄われるものだった。黒人のみならず白人にも受け入れられ、社会に大きな影響を及ぼしている。山下達郎は、カーティスほどは積極的に社会批判を入れたり、ムーブメントに関与しはしないが、「個人的な独白の歌」としながらも、『Pocket
Music』(1986年)に収録された「ザ・ウォー・ソング」のような反戦歌を書いている。この曲は当時の中曽根首相の不沈空母発言へのプロテストソング的な歌だとライナーノートに彼自身が綴っていた。「蒼氓」は反戦歌ではないし、プロテストソングというわけでもないが、やはりこれに近いスタンスから書かれた曲である。「蒼氓」とは彼自身の解説によれば、無名の民のことを指す言葉だという。人間が生きていくことへの賛歌のような歌になっており、彼のメッセージがのせられている。『JOY』のライブでは、この曲の間奏部分のMCで「この数年間作った歌の中で一番思い入れの深い曲」と紹介しているが、それだけ彼の気持ちが入った歌となっている。カーティスをはじめとするニュー・ソウル運動の担い手たち、ダニー・ハサ−ウエイやマーヴィン・ゲイらの歌は、そういう名もない人々を題材にした歌だった。彼らの音楽に対する姿勢と同様のものが、山下達郎には感じられるのである。
この「蒼氓」はそういうスタンスで書かれたスローテンポの曲で、絞り出すように唄われる。最後には「ラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラーラ、ララ」のコーラスがあり、スタジオテイクではそのままフェイドアウトして終わっていた。『JOY』に収録されたライブバージョンは、実に13分以上のロングバージョンとなっている。終盤の「ラ、ラ、ラ.....」のコーラス部分が非常に長く、そこが聞き物となっている。「ラ、ラ、ラ.....」が1セクション終わって一瞬とぎれたところで、いきなり山下達郎は「ピープル・ゲット・レディ」を唄ってしまう。「蒼氓」のゆったりしたベースラインが演奏されているまま、その上に重ねて、この歌を唄うのである。さらに続いて、マーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイン・オン」を、さらにU2の「プライド(Pride
(In the Name of Love))」(1984年)を連続メドレーで唄ってしまう。「ラ、ラ、ラ.....」のベースラインが「蒼氓」そのままのテンポで演奏されるているところに、それにシンクロさせながら違う曲をメドレーにて立て続けに3曲唄ってしまうのである。この歌唱力とセンスは普通の日本のミュージシャンには決して真似できないもので圧巻だ。山下達郎の真骨頂を聴けるアドリブシーンなのである。彼の彼らしさが爆発した名録音の一つである。
このアドリブシーンで唄われる3曲はいずれもメッセージソングである。「ピープル・ゲット・レディ」はすでに書いたとおり。「ホワッツ・ゴーイン・オン」もアレサ・フランクリン盤のところで記したように、ベトナム戦争時のどうしようもない銃後の実情を訴えたものだ。U2の「プライド(Pride
(In the Name of Love))」は『焔(Unforgettable Fire)』に収録されていた曲だが、マーティン・ルーサー・キング牧師への賛歌である。IRA絡みの紛争が相次いだアイルランド出身の彼らはデビュー当時から歌に政治的なメッセージを盛り込んでいたが、その中でも非常に有名な曲で、彼らがアメリカで評価されるきっかけとなった曲だ。この3つの曲は、ベースの部分では公民権運動というテーマで結びついている。それを無名の民への賛歌である「蒼氓」という歌の中に組み込んでしまうところが、山下達郎の音楽センスの素晴らしさである。これら3曲は当然、彼のフェイバリットでもあるはずだが、この3曲と同じような想いが込められたのが「蒼氓」であるともいえる。しかも、曲として自分の曲の中に違和感なく、メロディを変えずに挿むあたりが、彼の才能なのだ。尊敬を込めて言うが、最強のポップスオタクなのである。それもただのオタクではない。
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「ピープル・ゲット・レディ」の作者であるカーティス・メイフィールドは1990年、ツアーのリハーサル中に照明器具が落下して、彼を直撃、脊髄を損傷して半身不随の重傷を負ってしまった。その後、何とか奇跡的な復活を遂げたが、事故後遺症は彼を蝕み、1999年12月26日にこの世を去った。まだ57歳という若さだった。彼をリスペクトしているミュージシャンは多いが、早すぎる死は本当にショックだった。彼の歌はあれだけのメッセージを盛り込みながらも、決してナイフの刃先のような威圧感はなく、優しさに満ちあふれていた。「ピープル・ゲット・レディ」はそういう彼のメッセージが込められた曲だが、ある時はソウル、ある時はゴスペル、ある時はレゲエ、そしてロック、ブルースなど、あらゆるジャンルのミュージシャンに取り上げられてきた。そういう幅広い支持があったのも彼の作り出す歌の素晴らしさ故だろう。この歌をはじめとする、彼の残した作品は、これからも歌い継がれていくだろうし、彼の精神もいろいろな形で踏襲されていくに違いない。
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