漣健児さん
   漣健児(さざなみ けんじ)  訳詞者、作詞家、音楽誌編集長、音楽出版社事務所、プロダクション経営者
   生まれ:1931年 逝去された日:2005年6月6日 享年74歳

■訳詞家としての漣健児

 漣健児(さざなみけんじ)と聞いても、ピンとこない人も多いかもしれない。漣健児、新田宣夫、そして本名の草野昌一と、いろいろ名前を使い分けて活動してきたこの方は、実は日本の音楽界に多大な影響を与えた人物の一人である。版権ビジネスを軌道に乗せ、『ミュージック・ライフ』を事実上創刊し、外国のポップスの訳詞を手がけて洋楽を日本に普及させ、自身のプロダクションで数々のミュージシャンを育てた、たいへんな功労者だ。漣さんの業績の中でも、特に有名なのが訳詞を中心とした作詞者の部分だろう。主な訳詞作品とオリジナル歌手を見てみると、


ステキなタイミング・・・・坂本九&パラダイスキング(ジミー・ジョーンズ)[1960]
赤鼻のトナカイ・・・・・・坂本九&パラダイスキング(ジーン・オートリー)[1961]
パイナップル・プリンセス・田代みどり(アネット)[1961]
ルイジアナ・ママ・・・・・飯田久彦(ジーン・ビットニー)[1961]
悲しき街角・・・・・・・・飯田久彦(デル・シャノン)[1961]
悲しき片想い・・・・・・・弘田三枝子(ヘレン・シャピロ)[1961]
子供じゃないの・・・・・・弘田三枝子(ヘレン・シャピロ)[1961]
ヴァケーション・・・・・・弘田三枝子(コニー・フランシス)[1962]
可愛いベイビー・・・・・・中尾ミエ(コニー・フランシス)[1962]
大人になりたい・・・・・・伊東ゆかり(コニー・フランシス)[1962]
私のベイビー・・・・・・・弘田三枝子(ロネッツ)[1963]
想い出の冬休み・・・・・・弘田三枝子(コニー・フランシス)[1963]
太陽はもえている・・・・・高橋元太郎(ロス・マチュカンボス楽団)[1963]
涙のためいき・・・・・・・弘田三枝子(ブレンダ・リー)[1964]
キャント・バイ・ミー・ラブ・・・・・・東京ビートルズ(ビートルズ)[1964]
別離(わかれ)・・・・・・弘田三枝子(ミーナ)[1965]
砂に消えた涙・・・・・・・伊東ゆかり(ミーナ)[1965]
そよ風にのって・・・・・・伊東ゆかり(マージョリー・ノエル)[1966]
恋はみずいろ・・・・・・・森山良子(ポール・モーリア)[1967]
好きさ好きさ好きさ・・・・ザ・カーナビーツ(ゾンビーズ)[1967]
ミッキーマウス・マーチ・・東京荒川少年少女合唱団(ディズニー)

と、和製カバー・ポップスの名曲から、童謡的な歌までいろいろな曲が並ぶ。
 ただ、私の世代くらいになると、漣さんが手がけた訳詞をつけた曲を唄った歌手、たとえば飯田久彦、弘田三枝子とかいった歌手は、正直、同時代的に聞いた記憶は全くない。中尾ミエ、伊東ゆかりがかろうじて記憶の奥深いところにあるような感じなのだ。後者の二人は、70年代くらいまで人気があったから、懐メロ番組やバラエティーで唄っていたものを見て、なんとなく記憶の中で同時代的に聞いたような錯覚があるのかもしれない。あるいは、親が唄っていたので親を通して間接的に記憶の中に刷り込まれたということもあっただろう。同時代的に見ていなくても、中尾ミエ、伊東ゆかり、森山良子、坂本九などは、私が子供の時にいろいろなテレビに出演していたから、そういう意味では親しみがあり、それで勝手に聞いたような錯覚が生まれているのかもしれない。
 年齢的にいえば、これらが出た60年代初頭、10代だった現在50代から上の人は同時代的に聞いた世代ということになるだろう。このぐらいの世代の人には、漣さんの訳詞がついたこれらの曲は青春の一ページを彩る1曲となっているに違いない。そういう年代の人たちに、当時のことをいろいろ聞いてみると、これらの曲はほとんど、オリジナルの外国人歌手の歌は聴いた覚えがないという人が多い。もちろん、ラジオやレコードなどで聞いている人もいるのだが、それよりも日本人歌手の方が印象がだんぜん強いという。「ルイジアナ・ママ」ならジーン・ビットニーより飯田久彦の方がだんぜん強く、「あの娘はルイジアナ・ママ、やってきたのはニューオオリンズ」という漣さんの翻訳歌詞で曲を憶えているというわけだ。
 中尾ミエの「可愛いベイビー」がヒットした昭和37年、1962年といえば、資料によれば大学出の公務員の初任給は10,800円、ラーメンの値段が1杯40円だった。レコードはコンポーネントステレオではなく、アンプとスピーカーが一緒の箱に合体していた小型のレコード・プレーヤーで聞くのが主流の時代だ。ステレオはあっても超高価な電化製品だった。だいたいモノラル録音がまだ現役だったのである。ドーナッツ盤と呼ばれた45回転のシングルレコードでも他のものに較べ高かったから、おいそれと買えるような代物ではなかった。特に未成年の仕事をしていない子供が、ほしいからといって簡単に買えってもらえるようなものではない。カセットレコーダーすらない時代である。ラジオや、普及が著しくなってきたテレビから聞こえてくる歌が全てだったといってもいい。現在ですらまだまだ英語にアレルギー体質のある日本人にとって、ラジオやテレビから流れてくる日本語詞の歌は、同じ曲でも英語のものよりも遙かに親しみやすかっただろう。漣さんの詞によって、これらのポップスが日本に普及したことは、紛れもない事実である。
 また、漣さんは音楽出版社の経営者でもあるから、たんなる翻訳家ではない。音楽屋から依頼のあった曲の訳詞を書くのではなく、自らが見つけた曲に自ら翻訳詞をつけ、歌手に歌わすという部分が大きかったはずだ。プロデューサーなのである。父親は新興楽譜出版(現・シンコー・ミュージック)社の創業者で、漣さんは早くから留学して欧米の音楽に通じていた。早稲田大学2年の在学時に音楽誌『ミュージック・ライフ』を立ち上げていたから、音楽業界に通じていた方である。流行る曲というのにも嗅覚があったのだろう。『ミュージック・ライフ』の編集長のまま、1960年の坂本九の「ステキなタイミング」で作詞家デビューし、弘田三枝子らをスターにしていった。
 正直、漣さんが書いた訳詩で同時代的にポップスを聞いた世代ではないので、個人的にはよくわからない部分が多いが、漣さんの業績でよく言われているのが、8ビートに日本語をうまく乗せたという部分についてである。これは漣さんが訳詞に取り組んだ時代が、そういう時代だったから8ビートになったというだけのことだろう。他の時代だったら、また違った仕事をしていたかもしれない。それよりもむしろ、ただの直訳ではなく、意訳の部分での素晴らしさを業績としてあげておかなくてはならないと個人的には思う。それについて、漣さん自身が語っている文章があるので紹介したい。
 「「詩や詩歌」という文学的作品と違って、メロディ・ラインを伴った「音楽」の場合には、共同著作物的な意味合いを持つものになり、それが更に編曲とか歌唱といったもう一つずつの要素が、作品の力を視覚だけの世界から、聴覚を伴った世界へと羽ばたかせる。それが「詩」から「詞」への世界への「跳躍」であり、「超訳」となってオリジナルの国境線を超えて改作・翻案の世界に着陸させる手段となるのである。日本語の場合、アルファベットの26文字に対して五十音の表記のある分、余分な単語を利用し引用しながら、表現や感情の言葉の微細な部分を伝達することができるのが面白いところだ。美しい言葉の多い日本語にするために、歌手や作曲家から多くの刺激を受けながら、微妙な微調整と大胆な改作が可能な日本語詞(ことば)こそが、「訳詞」とひと言で大雑把にくくられている行間にあるのである」(『シャンテ(ポエム・リーディング)』発刊によせて 超訳と訳詞の行間より 2004年)
 ここにあるように、漣さんの歌詞翻訳というのは、意識して大いなる意訳をしていたことがわかる。英詩を日本語訳したことがある人ならよくわかると思うが、いくら上手く訳しても、それがメロディに当てはまるようなことはまずない。無理なのだ。意訳の必要性というのは、歌詞に限らず、商業的な翻訳には当然出てくるものだ。歌の場合、漣さんが言うとおり、メロディ・ラインがあり、アレンジ、加えて歌手の歌唱力や歌唱法、表現法という、様々な要素が加味され、その協調のうちに行われるものである。さらに訳者によっては「改作・翻案の世界」にまで持っていくことが可能ということになる。言葉それぞれもその個性があり、独特のリズムや音を持っている。メロディに適応させるためには意訳が必要であり、さらにそれを発展させることで、より表現を広げることが可能になる。そこまでしたのが漣さんの作品だったということだろう。

60年代前半だけに集中した漣さんの訳詞という仕事

 ただ、そこまでしたらオリジナルを尊重していないのではないのか、という批判もあるかもしれない。確かに、オリジナルは尊重されるべきものではある。しかし、言葉の違いがある以上、その壁を埋めることはなかなか困難なことだ。それゆえ、こういう翻訳詩というものが登場してくることになる。漣さんが歌詞を訳していた時代というのは、60年代初頭なわけだが、この時代は前のところに書いたように、英語詞の歌を聞くには、聞き手の英語能力の問題、経済状況、レコードなどのメディアの問題など、環境が整っていなかった。だからこそ、翻訳カバーソングが売れた。漣さんはそういう時代の寵児だったといえるだろう。漣さんはオリジナルを尊重しなかったわけではない。『ミュージック・ライフ』の編集長だった漣さんはオリジナルのことは誰よりもよく知っていたはずで、その素晴らしさを知っていたからこそ、日本に紹介したのである。漣さんの翻訳詩の作品というのは実は限られた時期にしか発表されていない。60年代前半のみなのである。それを検証すれば、漣さんがどれだけオリジナルに愛情を注いでいたか、よくわかるのだ。
 漣さんの詩作作品リストを見ると、すでに66年くらいになると、 ミーナの「悲しみは空のかなたに」、マージョリー・ノエルの「そよ風にのって」など、カバーバージョンの訳詞は数曲のみとなっている。そういうヒットポップスよりもこの時期はボニー・ジャックスやダークダックスなどに、「漕げよマイケル」「コットン・フィールズ」などのトラディッショナル的な歌を翻訳しているのが目立つ。それ以降は、自分のプロダクションのザ・カーナビーツに翻訳詩を提供しているのが目立つだけで、翻訳詩は童謡やトラディッショナル曲のみとなっている。70年代には翻訳詩ではない、数曲の彼オリジナルの詩作があるのみである。460曲を超える詩作品があるが、その多くを占める翻訳詩作品は60〜65年のわずか5年の間に書かれたものなのだ。
 1964年、日本は大きな衝撃を受けることになる。ビートルズが来日したのだ。ビートルズの来日というのは、実に大きな影響を日本に与えることになった。日本武道館を初めてコンサート会場にし、アメリカ大統領をしのぐVIP警備が引かれ、行われた3日間のコンサートは社会現象となった。もちろん当時それだけ熱中していたビートルズマニアが日本にもいたことは確かだが、来日決定から帰った後も、常にニュースとなってきた彼らの存在は、洋楽とは縁のなかった人をも、その世界に巻き込むことになる。当時を生きていた人なら、絶対にどこからか流れてくるビートルズのオリジナル曲を何曲も毎日のように耳にしていたはずだ。ビートルズの来日は文化面、社会面、風俗面などの価値観はもちろん、音楽面でも大きな変化をもたらした。彼らの来日が、洋楽ファンの階層を広げるとともに、オリジナルのアーティストの存在の高さを印象つけることになった。それまで主流だったロックン・ロールは、ある意味、誰でも歌えたものだった。だからこそ、カバーというのが成立しやすかった。しかし、ビートルズはそれぞれメンバーが楽器を弾き、そして唄う。個性のあるユニットであり、当時はそのユニットでしか、その音は表現できないものだった。ロックン・ロールは一気に過去の時代の音楽となり、替わってロックが台頭してくることになった。誰もがビートルズのオリジナルの歌を聴く。さらにローリング・ストーンズやホリーズなど別のアーティストにも興味を抱くようになる。そうしてオリジナルに接しているうちに、カバーソングの必要性が次第に薄らいでいくことになっていったのだろう。
 漣さんの翻訳詩作品群の中で、東京ビートルズというグループの作品がある。その名の通り、このグループ、最初は日本版のビートルズ・カバーバンドだった。この東京ビートルズのレコードは、現在においては、よく珍盤として語られるもので、マニアックな世界ではかなり有名なレコードだった。ただ、本家本元のビートルズがあまりに偉大なため、よく酷評されるレコードでもある。特に近年は、高田文男と大瀧詠一両氏の肝いりで復刻版CDが出たこともあり、完全なパチもの的な扱いを受けている。漣さんは彼らのデビュー盤の「抱きしめたい」とB面の「プリーズ・プリーズ・ミー」、第2弾の「キャント・バイ・ミー・ラヴ」とB面の「ツイスト・アンド・シャウト」の4曲を訳詞している(ただし、「抱きしめたい」はスリー・ファンキーズのために最初訳詞された)。いずれもご存じのようにビートルズの代表曲で、64年に発売されたものだ。この当時はここまで見たように、洋楽のカバーソングは当たり前という時代だった。当然、ビートルズのカバー・ソングが出てきても当たり前の状況だった。もちろん日本人によるビートルズのカバーもあったが、カバー・ソングが爆発的に売れたことはなかった。すでにビートルズというオリジナルの存在感が決定的なくらい大きなものだったのだろう。64年、オリジナルの来日に合わせるように結成された東京ビートルズも、やはり売れなかった。ビートルズの名前を語って、ただ東京をつけただけという彼らの名前も不幸だった。それだけで反発を買うことにもなる。違う名前で、オリジナル曲の一つもあれば別だったかもしれないが、完全なコピーバンドとして登場しただけに結果は散々なものとなった。
 東京ビートルズはロックにおけるオリジナルの優越性を証明する形となった。ビートルズを記事の中心にしていた『ミュージック・ライフ』のボスである漣さんは、時代の動きに敏感であっただろうから、すでにオリジナルが尊重される時代への流れを悟っていただろう。『ミュージック・ライフ』はそういう洋楽の話題やミュージシャンを取り上げている雑誌だったから、そのことは人一倍感じていたはずである。60年代後半、それまで信じられないペースで行っていた訳詞の仕事はこの頃を境にガクンと減ることになるのは、そういう空気を察してのことだろう。もちろん、本業の版権ビジネスが本格的になり、忙しくなったこともあり、副業ともいえる歌詞の翻訳に時間を割ける状態でもなかったこともあっただろう。時代が変わってきたことで、カバーバージョンの必要性が、かなり後退することになったのだ。
 東京ビートルズに提供した4曲は、Web上で、その詞がよく揶揄されているところをを見かける。確かに今聞けばダサイものかもしれない。しかし、それはオリジナルに慣れ親しんだ人々が、英語の音しか受け付けられなくなっていることが背景にある。歌詞の内容がどうのよりも、まず日本語が使われていることで、ダサク聞こえているのだ。さらに現代的な価値観から詞を見ているから、内容まで揶揄することになる。
 「キャント・バイ・ミー・ラヴ」の冒頭の部分のオリジナルと漣さんの訳詞を見てみよう。


Can't Buy Me Loveキャント・バイ・ミー・ラヴ

オリジナル(レノン&マッカートニー)

 Can't buy me love, love,
 Can't buy me love.
 I'll buy you a diamond ring my friend, If it makes you feel alright, 
 I'll get you anything my friend, If it makes you feel alright,
 For I don't care too much for money, For money can't buy me love.
 I'll give you all I've got to give, If you say you love me too,
 I may not have a lot to give,But what I've got I'll give to you,
 For I don't care too much for money,For money can't buy me love.

ヲ漣さんの訳詞

 キャント バイ ミー ラブ ラブ 
 キャント バイ ミー ラブ
 買いたい時にゃ 金だしゃ買える 
 プールのついた 家でも買える 
 それでも買えない 恋人だけは
 買いたい時にゃ 金だしゃ買える 
 ダイヤにミンク 何でも買える 
 それでも買えない 真心だけは


 オリジナルと較べて、訳詞の内容は決して間違っていない。どころか、よくツボを押さえた訳である。これを両方とも声を出して唄ってみてもらいたい。英語のオリジナル詞は、この曲を唄うのになれていない限り、日本人にはかなり難しい。初めてでは絶対に単語が余って唄いきれないはずだ。数回練習しても無理だろう。日本語感覚からすれば、あまりに音に対して単語の数が多く、英語らしいリズムで唄われてしまっているため、日本人はついていけない。昔コピーしようとした人は、かなり苦労したはずだ。漣さんの訳詞は、日本人のために実に音をとりやすく計算されている。すーっと歌えるはずだ。言い回しなどに多少の古さは感じても、それは現代ではなくそういう時代のものだったからで、これは歌の訳詞としては非常に素晴らしいものといえる。古さは時代を背負ってるからやむを得ないもので、ダサイと感じるなら、むしろ訳の問題ではなく、歌手のパフォーマンスの問題だろう。東京ビートルズが出たのは、時代的には当然のことであり、その中で漣さんはベストの仕事をしたといえるだろう。そういうプロジェクトの中で異彩を放っているのだ。これは故人に敬意を称してのリップサービスではない。売り方、パフォーマンスの問題なのだ。あまりに露骨すぎると感じられるグループのネーミング、二番煎じ丸出しの選曲、オリジナルの欠如、そして、まだまだビートルズについていけていなかった音楽的感覚などがダメだったということなのである。
 ビートルズと同じようなタイプの音楽で、漣さんが訳詞をつけた作品にザ・カーナビーツの「好きさ好きさ好きさ」がある。1967年のこの作品は、漣さんがほとんど訳詞をしなくなっていた時に作られたものだ。ザ・カーナビーツはブルーコメッツ、スパイダース、タイガース、テンプターズなどのGSブームにのって出たグループで、漣さんのプロダクションに所属していた。ビートルズによって火がついた日本のGSブームの後半に出てきたグループなわけだが、彼らの代表曲「好きさ好きさ好きさ」はオリジナルはゾンビーズの「I Love You」という曲である。しかし、このオリジナル、ビートルズの曲ほどは有名ではない。どれくらいの人が、このオリジナルを知っているだろう。ザ・カーナビーツのカバー・バージョンはドラム兼ボーカルのアイ高野が、スティックを耳のところにあてて、「おまえの全てーぇ!」と絶叫シャウトするパフォーマンスがウケ、失心者続出、かなり売れたレコードとなった。アイ高野の歌唱力は、のちに所属したクリエーションでも発揮され、「ロンリー・ハート」という大ヒット曲も生んでいる。
パフォーマンスが良かったからこそ、印象が強く、オリジナルを上まわれたのだ。「I love you, I love you, I love you, Yes I do」というオリジナルの詞は英語の初歩で、中学まで行っていれば誰でも歌える歌詞だが、それでも日本人の大方は「好きさ、好きさ、好きさ、Yes I do」しか憶えていないだろう。オリジナルの存在は非常に印象の薄いものだった。ザ・カーナビーツのパフォーマンスが良かったから、オリジナルが目立たない。同じカバーの東京ビートルズに否定的な人でも、ザ・カーナビーツは肯定的に見ている人は多いのではないだろうか。東京ビートルズと、ザ・カーナビーツ、ともにカバーソングが代表曲である。しかも同じ人間が訳詞をつけているのである。違いはパフォーマンスの差、売り方の違いだけなのである。
  音楽の教科書にまで載っている「赤鼻のトナカイ」に至っては、これはもう漣さんの訳詞作品「真っ赤なお鼻の…」しか知らない。洋楽のクリスマスアルバムを注意して聴いているような人や宣教師が外国人の教会にでも行っている人でなければ、英語詞は知らないだろう。漣さんの作った日本語歌詞をみんなで唄っているのである。

コニー・フランシスの日本語バージョンとナベプロ

 歌詞のことでもう一つ漣さんの仕事で思い出すのは、コニー・フランシスとの一連の仕事である。最近、韓流ブームで、その一翼を担っているBOAは同じ曲を日本語とハングルの両バージョンで出したり、イ・ジョンヒョンなどの歌手が相次いで日本語バージョンの曲を出している。こういった外国人歌手が、自分の持ち歌を日本語歌詞で唄う「日本語バージョン」というレコードが昔から結構ある。特に60年代は盛んに作られた。フランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」(1965年)、ポール&ポーラ、アダモ、もうちょっと時代は下って、有名どころではスリー・ディグリーズ、ノーランズなども、この手のバージョンを作っていた。ペギー・マーチも日本語バージョンで自分の歌を唄って、日本でかなり売れたが、彼女の代表作「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」(1963年)の日本語バージョンの訳詞(1966年)も漣さんの作品だ。
 ペギー・マーチ以上に日本語バージョンの曲が親しまれたのが、コニー・フランシスである。コニー・フランシスといえば、オールディーズの女王、誰もが知る世界的な歌手だが、この人は、語学の感がかなりよかったらしく、自分の曲をフランス語やスペイン語などでも唄って、多言語のバージョンでレコードを出している。もちろん、日本語でも唄っているのだが、その訳詞を手がけたのが漣さんだった。コニーはかなりの日本贔屓だったそうで、ヒット曲のほとんどが漣さんの手によって訳詞され、録音されている。日本語バージョンだけ集めてアルバムができるほどだった。普通、日本語バージョンを作っても、シングル裏面は母国語の別の歌だったりで、精々数曲程度を録音するのに止まっているものだ。別の言葉で唄うのはストレスだし、面倒なはずだが、それを20曲近く録音しているのが彼女なのである。日本語バージョンを唄う歌手というのは、実は本国でさほど売れていない歌手が多いものなのだが、この人の場合、それは当てはまらない。日本語バージョンを唄っていたときでさえ、まだまだアメリカのトップアイドルであったのだ。それでも日本語バージョンをこれだけ録音したことは注目に値する。漣さんの訳詞の日本語バージョンで、彼女は日本でも非常に親しまれたアメリカの歌手の一人となった。
 彼女の日本語バージョンの録音の際には漣さんが出向いて、スタジオで彼女に日本語の指導をしていたそうである。中尾ミエで超特大のヒットとなった「可愛いベイビー」は、中尾ミエや森山加代子らがカバーする前に、実はコニー・フランシスの日本語バージョンの方が先に出ている。当時を同時期的に知らない私のような者がこういうカバーの順番を考えるとき、コニーのオリジナル英語バージョンがあって、それを中尾ミエらが日本語でカバー、その後本家のコニーの日本語バージョンが出たと、普通は思うものである。しかし、実はコニーの日本語バージョンの方が、日本人歌手より先に出たのだ。
 「可愛いベイビー」とくれば、まず思い出されるのが冒頭の「かわいいベイビー、ハイハイ」のフレーズだろう。しかし、漣さんが最初に訳したこの曲の有名な歌い出しは、オリジナルの英語版の「Pretty little baby yah! yah!」に忠実に「かわいいベイビー、yah! yah!」だったらしい。それをニューヨークで録音中に、コニー自身がスタジオのガラス越しに漣さんに向かって「 yah! yah!じゃなくて、ハイ、ハイにしたら変かしら?」と聞いてきたことをきっかけに、例のフレーズが完成された。コニーは日本人同士の日本語の会話を聞いていると、やけに「はい」といっているように聞こえたので、音に勘のいい彼女が「ハイ、ハイ」を思いついたそうだ。結局、それが採用されて、今日、あの名フレーズがあることになる。
 録音に立ち会っていた漣さんはすぐさま、この曲が日本で当たることを確信したらしく、帰国後に渡辺プロの社長だった渡辺晋さんにこの曲のヒット性を話したそうだ。当時のナベプロといえば、クレージー・キャッツが稼ぎ頭で、歌手部門はザ・ピーナッツが出てはいたもののまだまだの状態で、新人歌手のプロモーションが急務となっていたときだった。ナベプロは出演者の仕切りを任された歌謡番組『ヒットパレード』でテレビ番組の有益性を、他のプロダクションに先行し、いち早く悟っていた。さらに自分のプロダクションが有利に立ち回れる番組を作るため、当時飛ぶ鳥を落とす人気のクレージーを使い、テレビ局に働きかけ、1961年放映が始まったのが『シャボン玉ホリデー』だった。クレージーのコメディアンとしての才能を歌謡番組と融合させたバラエティ番組の元祖ともいえるこの番組は大人気となり、ナベプロが天下を獲る原動力となった。このころ、ナベプロが売り出そうとしていた一押しの歌手が中尾ミエで、漣さんが持ってきた「可愛いベイビー」は彼女のデビュー曲に選出された。コニー自身の日本語バージョンがまず62年3月に発売され、大好評を博するとそれを追いかけるように5月に中尾ミエらのバージョンが発売された。『ヒットパレード』『シャボン玉ホリデー』という舞台はすでにそろっており、そこで唄いまくって、この中尾ミエ・バージョンは爆発的に売れることになる。
 その後、『ヒットパレード』と『シャボン玉ホリデー』では、手当たり次第にアメリカのポップスがカバーされることになる。ナベプロは中尾ミエに続けとばかりに、伊東ゆかり、園まりをデビューさせ、「(スパーク)三人娘」として売り出した。彼女たち、特に中尾ミエと伊東ゆかりは両番組でカバーソングを歌いまくり、それがシングルとして発売され、これが売れて人気歌手へと成長していくことになる。ナベプロはこの成功でテレビ界に大きな影響力を持っていくことになるが、彼女たちの歌を支えたのは、そしてナベプロを飛躍するきっかけを与えたのは、漣さんの翻訳歌詞が一役買っていたことは間違いない。

■漣さんが仕掛けた 『ミュージック・ライフ』

 本名の草野昌一は、本業であるシンコー・ミュージックでの仕事で使われた。シンコー・ミュージックは、音楽を演奏している人なら誰でも知っている楽譜や教則本などを出版している音楽出版社である。父親が創業者だが、彼の時代になって、大きく羽ばたいたといっても過言ではない。版権ビジネスを定着させたことはもちろんだが、世間的にこの会社の存在を大きくアピールしたのは『ミュージック・ライフ』誌の存在だろう。洋楽についての様々な情報が集約されていたこの雑誌は、ポップス・ロック系雑誌の老舗ともいえる存在で、これを読んで洋楽に触れた人は多いことだろう。競合誌が乱立した70年代以降はコアなロックファンからは若干、軟派的な印象を持たれていたが、それでもこの雑誌が果たした役割は非常に大きかった。私にとっても、小学校高学年くらいから、毎月、近所にあった公立図書館で目を通していた雑誌の一つだった。『レコード芸術』『音楽の友』『スイングジャーナル』、そして『ミュージック・ライフ』の棚が常設されていたこの図書館は私にとってはかけがえのない情報源だった。この図書館は実に音楽好きには優しい図書館で、クラッシク、民族音楽からロック・ポップス、マイナーなミュージシャンに至るまで、様々なレコードも置いてあった。音楽面ではかなり進んでいた図書館だった。音楽に詳しい図書館員がいたのだだろうが、その図書館員が選んだ雑誌というのは、各ジャンルの老舗的な専門雑誌だったわけで、それだけ定評のあるものということができる。
 『ミュージック・ライフ』は1932年に創刊されたらしいが、当時の日本にはタイトルからして、まだ早すぎた雑誌だったのかもしれない。当局の干渉により『歌の花籠』と改題を余儀なくされ、1943年の戦時下に休刊となった。長らく休刊状態だったものを、1951年復刊させたのが当時大学生だった草野昌一さん、つまり漣さんということになる。復刊といっても名ばかりであるから、事実上の創刊だったといっていい。『ミュージック・ライフ』の編集長というと、創刊者の漣さんをはじめ、星加ルミ子さん、水上はる子さん、東郷かおる子さん、森田敏文さんなどが思い浮かぶが、今考えてみれば、それぞれの編集長の志向がかなり紙面に反映されていたような印象がある雑誌だった。漣さんの時代は現在でいうオールディーズが、星加さんの時代はビートルズが、水上さんの時は台頭してきた新たなロックに、そして東郷さんの時代はクイーンを中心とするロック勢にスポットが当てられていた。漣さんは編集長を退いても、編集・発行元のシンコー・ミュージックの社長であったから、歴代の編集部の上にいる方だったわけだ。歴代の編集長の志向が大きく出る紙面作りが可能だったのは、漣さんが個性を潰すようなことはしてこなかったからなのかもしれない。
 とにかく、この雑誌は音楽誌の老舗であったから、思っている以上に影響力があった。漣さんは訳詞活動を平行させて、雑誌との相乗効果で洋楽を日本に定着させていった。そして印象的なのが、星加さんのビートルズへの、東郷さんのクイーンへの思い入れは凄まじさである。両グループが日本に定着するのに両氏の影響力はかなりのものがあったはずだ。彼女たちによって編集された『ミュージック・ライフ』は起爆剤になったような面がある。特にクイーンはアメリカでは全く無名で、本国イギリスでやっとぼちぼち来始めていた段階で、『ミュージック・ライフ』が彼らを大々的に取り上げて日本で火がついた。彼らはその後急激にビックになって、「ボヘミアン・ラプソディー」のころにはアメリカでもようやく人気が出て、世界のスーパースターへとのし上がていくことになる。彼らはマイナーな時代からサポートしていた日本に対して、たいへんな好意を持っていることはよく知られているが、そうなるまでの『ミュージック・ライフ』誌の貢献度はかなりのものがあっただろう。
 個人的には80年代序盤にロックに失望し、そのころから『ミュージック・ライフ』をはじめ、『音楽専科』や『ロッキンオン』などをほとんど見なくなってはいたが、海外に暮らすようになり、日本の音楽雑誌そのものを完全に見なくなっていた。そういう状態だったから、漣さんの死に際して初めて、『ミュージック・ライフ』が98年12月号をもって休刊となった事実を知った次第である。時代の移り変わりといってはそれまでだが、かつてページを開いた雑誌がなくなって、非常に寂しい思いだ。創刊者である漣さんにとっては、休刊は断腸の思いの決断だったに違いない。
 昨年12月、サンケイ・スポーツに、漣さんへのトリビュート・アルバム『Together and Forever』が発売されるとの記事が出ていた。かつて漣さんが経営していたプロダクションにいたミュージシャンや歌手が集まって、病気を患っている漣さんへの応援と感謝の意を込めて、漣さんが訳詞をつけた曲を唄って、トリビュート盤としたそうだ。そのメンバーは、発起人となった元チューリップの財津和夫をはじめ、チューリップの各メンバー、あべ静江、甲斐よしひろ、さとう宗幸、長谷川きよし、プリンセス・プリンセスのメンバー、種ともこらと非常に豪華多彩な顔ぶれとなっている。これらのミュージシャンや歌手は漣さんによって売り出してもらったわけで、こういうプロデュース面での業績というものもたいへんなものがあることは、このメンツが教えてくれる。

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 昨年のトリビュート・アルバムが企画にのった段階で、おそらく漣さんの病状というのは相当悪いものだったのだろう。膵臓がんで亡くなられたそうだが、本当に惜しい人物だった。この方の日本の音楽界に果たした役割というのは小さいものではない。漣さんへの個人的な想いとして、故人の業績を回顧してみたが、私の知らない、ここで触れた以上の表に出ない事跡があったに違いない。ミュージシャンからの自発的トリビュート盤が出たのを見れば、故人がいかに慕われていたかはよくわかる。山下達郎、竹内まりや夫妻、桑田佳祐、原由子夫妻をはじめ、漣さんに影響を受けたと公言する日本のトップミュージシャンも非常に多い。本当に惜しい人が亡くなられ、残念な限りだ。


     

 

(更新:2005年6月12日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弘田三枝子
ヴァケーション
B面ヒット
1962年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京ビートルズ
キャント・バイ・
ミー・ラブ

1964年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ザ。カーナビーズ
好きさ好きさ好きさ
1967年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

復刻されたコニー・
フランシスの日本語
バージョンを集めたCD
「思いでの冬休み」

 

中尾ミエ
可愛いベイビー
1962年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クイーン特集が組まれた「ミュージック・ライフ」75年6月号

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

漣健児トリビュート
Together And Forever
2004年

物故者の想い出インデックス
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